「悪人こそ救われる」の現代の意味

「悪人こそ救われる」の現代の意味
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以前、「自分とか、ないから。」という東洋哲学の入門書を読みました。コミュニティ内でも、読書会をして盛り上がった本です。

このとき、「親鸞」という人の

悪人こそ救われる

という言葉が、どうにも腑に落ちなくて、ずっと気になっていました。「なんで?」と。

そこで、親鸞の代表作「歎異抄」(たんにしょう)を解説する

NHK番組「100分de名著」を見て、現代においてはどういう意味になるのか

ちょっとだけ理解できた気がするので書いてみます。

東洋哲学の中でも親鸞はぶっとんでる

冒頭の本の中には7人の有名な東洋哲学者が登場するのですが、

親鸞はその中でもぶっ飛んだことを言っています。


まず、「修行して、悟りを開く」ことが教えの仏教を、

他力本願でOK」と言ってしまう。

しかも、仏教徒としては絶対にタブーな「結婚」までして、子どもも作っているという。


そして、特別な人でなくても、庶民でもできる

過酷な修行無しで阿弥陀仏を唱えるだけでOK

という「易行」(いぎょう。簡単な行為。)をすすめました。

簡単に言うと、「庶民の側にたった」人だったようです。

「悪人」は本当の悪人ではなく

歎異抄第3条では、有名な次の一説が出てきます。

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。

意味は、「善人でさえも極楽往生を遂げるのだから、ましてや悪人はなおさら往生できるはずである」です。

常識だと、「善人こそ往生できる」はずですが、親鸞は逆に善人は「自分はできると思い込む」、つまり自分の力を過信してしまうリスクがあると考えたのだろうと。

一方、悪人は、「自分をわきまえている」、だから人を上手に頼ることもできる、人の力を信じられる、ということでした。


ちなみにここで言われている「悪人」は、盗みだとか殺しだとか誰が見ても悪いことをしている人も含まれますが、どちらかというと頑張れない人、ニュアンス的には「頑張りたくても頑張れない人」がイメージされています。

実際、今でも「親ガチャ」なんて言われていますが、当時はもっと生まれついた環境だけで「卑しい」と言われるような家柄だったりして、自分の力ではどうにもできない人たちが存在していたようです。

環境によっては人はいつでも悪人になる」ことを強く認識していたから、

こういう言葉が出てきたんだなあとあらためて知ったのでした。(正直、本を読んだだけではここまで理解できなかった)

現代にあてはめると

以上の「悪人」の定義、実は私にもあてはまるところあるなあ…と思ったんですよね。


まずは、「女」に生まれついたこと。

あまりジェンダーの話はしたくないけれど、それだけで色々と不利な環境にあることは間違いない。

そして、就職氷河期世代に生まれたこと。

ここもあまり理由にしたくないけど、大きな影響はある。あと、母親も小さい頃に亡くしている。

それだけで、社会的には悪人(ここでは、資本主義世界ではランクが下の人)になる可能性が高いですよね。努力しても、それが必ず報われるとも限らないですし。


当然、私だけでなく、世の中の多くの人は「悪人」的な要素、あると思うんですよね。SNSでキラキラして「俺(私)ってすごい」と思っている人たちを除けば。


そういうキラキラ系の人が現代の資本主義に馴染めなかった人に

努力しなかったのがいけない」と簡単に言うのに対して、

現代に親鸞がいたら「やはり善人は往生できんな」と言いそうな気がする。


こっちがわ(悪人側)の人間としては、できない事情って

やっぱりわかるんですよね。

だから、私は自分の限界をわきまえているつもりではあります。無理しない、頑張らない。


以前、宇野常寛さんの「庭の話」を読みましたが、

資本主義のエリートにも、人間関係が大事な共同体にも馴染めない

人たち(私含め)の拠り所として、「庭」(「制作」を通じた場所)

が提唱されていました。

リアルな人間関係の場が本当に苦手な私には本当に共感できる本でした。

ちょっと親鸞の考えにも共通する気がして。


全然何も結論はありませんが、

この親鸞の「悪人ほど救われる」は、

どうしてもこの厳しい時代にこぼれ落ちていってしまった人たち、

今まで頑張ってきたけど頑張れなくなってしまった人たち、

そしてそういう人たちを想像できない人たち

をつなげる可能性があると思っています。

編集後記

気分転換に、「竹寺」で有名な「報国寺」へ行ってきました。

平日、雨、駅から遠いにもかかわらず多くの観光客がいてびっくり。

竹を見ながら美味しい抹茶をいただいて満足。

最近のあたらしいこと

報国寺

休耕庵

Belgfeld