今日は、人と人との関係や承認欲求について

頭の中でちょっともやっとしていることを

書いてみようと思います。

※仏教には、「諸法無我」(自分自身に実体はない)という考えがあるそうです

 

「自分が、自分が」をちょっと抑えてみる

最近、「自分が、自分が」という人が溢れている、

承認欲求がいきすぎた人が多くいる気がします。

 

承認欲求そのものは

全然悪いことではなくて、

それは人間にとって必要不可欠なものとは

思っているのですが

どうもいきすぎている気がするんですよね。

 

ちょっとでも良いから、

「自分が、自分が」を

抑えてみると見えてくる視点もあると思っています。

 

他者があってこその承認欲求

それは、「他者がいてこその自分」

という考え方です。

 

例えば承認欲求は

誰かに

「すごいね」

と言ってもらえることで

目的を達成できるわけで。

 

ただそれが一方通行であることは

ありえなくて、

皆が皆「自分を認めてもらいたい」

という方向になってしまったら

当然ながら

承認する人が供給不足になってしまいますよね。

 

現代は

どこもかしこも「自分を認めて!」

という人で溢れる歪な世界なのかな

と思っています。

 

誰かの人生とって、自分は脇役。

これはどこかで聞いた話なのですが、

「自分の人生にとって、自分が主役」ではあるけれども

それは同時に

「誰かの人生にとって、自分は脇役」

ということでもあるんですよね。

 

承認欲求が渦巻いていると

忘れがちなことだと思います。

 

誰かと関わるときに

「この人の人生にとって、自分は脇役」

と謙虚に構えれば、

「目の前の人の人生を支える名脇役としてどう接すれば良いか」

といったあらたな視点が出てきます。

 

それは、自分を押し殺すとは

違っていて、

たとえ意見が違っていても

「あなたと私は違う。でもまあ、あなたの考えもありだよね」

と謙虚に考えられることにもつながると思うんです。

 

そう考えられれば、

「人に尽くす」「人に合わせる」のも全然悪いことでもないなと。

仏教の考え方では

因果応報という言葉もある通り

人へよくすることは自分にもいつか戻ってくると思うので。

 

「もちつもたれつ」

「お互い様」

そして、

「自分は誰かの人生の脇役」

という精神が、

この承認欲求が渦巻く

世の中に流されることなく生きる

鍵になるのかな、

と最近思うところです。

 

編集後記

鎌倉に引っ越した後も

朝ランは続けています。

ただ、道がわからず

気づいたらリスが駆け回る

ハイキングコース

に入ってしまっていることもあり・・・・

全く走れず戻ってくることもしばしば^^;

(転落する恐れあり)

 

最近のあたらしいこと

micoco cafe

鎌倉の古民家カフェを全制覇!したいところですが

先は長そうです。

 

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