他者と離れながら、連なることが問いを作る。
12/302024
「問いの編集力」という本に、とても面白く共感することが書いてあったので、書きます。
「問い」が生まれるプロセスを考えていく本
「なんでこうなるのかな?」「こうしたらもっとうまくいくのでは?」という「問い」を持つことが大事と言われています。
でも、インターネットで受動的に情報を受け取っている現代ではそれが本当に難しい。そこで、問いが生まれるプロセスを土壌、種、発芽、結像の4つのフェーズで探っていくのがこの本の趣旨です。
生成AIで問いを与えればすぐ答えが出る時代。そしてその問いすらも刺激的なテレビやSNSでいくらでも与えられる時代だからこそ、個人に問う力を取り戻すことに興味があり、読んでみました。
「場」が問いを作る
この本の第3章で語られる「問いの発芽」で、「場」の大切さが書かれていました。
場とは、問いを作る環境のことです。
具体例として、江戸時代に実際にあった「連」(れん)というコミュニティが挙げられていました。そこでは職業の領域を超えて人が集い、さまざまな創作活動が行われていたようです。松尾芭蕉、井原西鶴、杉田玄白などもそういったコミュニティに参加していたということでした。
こういった小さなコミュニティがあちこちにあって、江戸時代の豊かな生活や経済文化が創発していったということなんですね。
周知のとおり、こういった場は現代ではほぼない気がします。
他者と離れながらあくまで連なる
私が新鮮だったのは、次の一文です。
連にあったような場のダイナミズムは、西洋的な個人主義とは違った次元で捉えなければ再現できないようだ。人の集まりとしてのサロンではなく、ある動的な生成の勢いを共に生み出すような場では、個人は他者や共同体に一体化するのではなく、むしろ他者と離れながらあくまで連なる、という特徴を持っていた。
この「他者と離れながらあくまで連なる」は、今の時代に本当に必要だと思うんですよね。
単に人が集まるだけの交流の場でもなく、あくまで自然発生的に人が集まるような場。そこは西洋のように議論を戦わせる場ではなく、個人を無理に主張せず、他人の想いを引き取って何かを加えて共創の一部となる。そのほうが日本人は合っていると著者は書かれていて、私もこれは共感します。
きっと、そのほうが幸せだと思うんですよね。SNSでの不毛な議論の戦わせ方を見ていると、本当にそう思う。自分をまずはなくしたほうがいい。
あと私も、著者と同様に、無理に他者と「一体化」する必要はないと思うんです。(だから「想いを一つに」、「みんな一緒に」、「絆」などの言葉、私は苦手です)
思うに、今の時代SNS等によって他人と自分の意見を分けづらくなっている気がします。エコーチェンバーに流されて、他人の意見を自分の意見と勘違いしてしまう。かなり強く意識して他人と離れる必要があると思います。
2項対立で済ませがちな白黒の境界線あたり(この本では「縁側」「間」(あわい)などと書かれています)に身をおいて、そこで出会った人たちと距離を保ったうえで良い関係を築くことが「自分なりの問いを持つ」には大事なんだと。
この「縁側」とか「間」(あわい)って個人的に好きです。ウチかソトか、わからないような場所。そんなどっちつかずの場所が世の中にもっとあればと思います。
実はこの「白黒つけない」「どっちつかずを楽しむ」は、今年はじめた「ひとり仕事を楽しむコミュニティ」でも大事にしていることです。価値観を合わせる必要はない。白黒つける必要もない。違いを楽しもうと。思わず「これだ!」と、読んでいて興奮してしまいました笑。
まずは自分の足で立ち、他者とは群れずに「連なる」。大事にしたい考えです。
編集後記
週末は、「おしゃべり禁止」の近所のカフェ(というか普通のコーヒーが飲める家?看板もない)に。
ちょっと急な坂を登らなきゃいけないけど、ここに行けば静かに読書ができるので気に入っています。
最近のあたらしいこと
米粉パンづくり
以前挑戦して失敗した米粉パン作りに再挑戦。
今度はなんとか食べられるくらいになりました!(ちょっともさっとしてるけど美味しい^^)