哲学者である近内悠太さんが書いた

『世界は贈与でできている』

という本は、

読後にモヤモヤ感、なんかすっきりしない感じを残す

良い本でした。(「モヤモヤ」「すっきりしない」はわたしにとって良い本の定義です)

とりとめないですが、

この本のエッセンスをいくつか取り上げて

私なりに思ったことを書いてみます。

 

お金で買えないもの = 贈与

この本ではお金で買えないもの=「贈与」と表されています。

代表的なもので言えば、他者から与えられるプレゼントですね。

他者から与えられた物は

その物以上の余剰価値みたいなのがあります。

このような余剰価値は人間の生きる本質であって、

ないと生きていけないものです。

だから、わたしたちは他者から贈与されることでしか、

本当に大切なものを手に入れられないと

この本には書かれています。

「自分へのご褒美」では駄目なんですね。

贈与は与えられなければ与えることができない

もうひとつ大事な点は、

贈与は与えられるところからスタートするということでした。

この本ではそれを

「不当に与えられてしまった」

と表現されています。

 

不当だからこそ、

もらったものを返さなくてはならない

という健全な債務感みたいなものが出てくると。

 

だから、人は人に贈与をせずにはいられないんですね。

これは、人間はひとりひとりが賢くなるのではなくて

助け合うために進化したこととも関係しているようです。

 

等価交換がなぜ苦しいのか

贈与とは真逆の、等価交換がなぜ苦しいのかも

書かれています。

「わたしはあなたにこれを与えた。で、あなたは何をしてくれるの?

が前提となってしまうと、

差し出すものがない人(社会的に「弱者」と呼ばれている人)

はそれだけで生きる意味を失ってしまいます。

 

実際に、介護離職をして、生活保護も受けられなかった

男性が介護していたお母さんと一緒に自害してしまった、

という悲しいエピソードも触れられていました。

こんなギスギスした世界は苦しいです。

 

差し出すものがなかったとしても、

人は誰かから贈与を受けるために

存在することだってできるはずで。

だからこういう人たちは「助けて」と言えた

はずです。

 

贈与は節度が必要

贈与が人間にとって必要不可欠なものではありますが、

一方ですごく難しいとも書かれていました。

ひとつは、

差し出す人は

「贈与であるということを知られていはいけない」

ということです。

知られてしまったら、

それは単なる等価交換になってしまうからですね。

 

もうひとつは、差し出す人は常に未来を見て、

「届かなくても良い」と節度を持つこと。

そして、受ける人は過去に既に与えられていた、ということに

気づかなければいけない(=想像できる)ということです。

「ああ、あれはわたしへの贈与だったんだ」

と後から気づくイメージですね。

 

これは「即効性」が求められている現代では難しいですよね。

ついついわたしたちは自分がしたことに対して

相手からすぐに見返りを求めてしまいがちです。

「待つ」ことによる節度が贈与には必要というのは

本当に深く考えさせられました。親としても。

 

しかも目の前の相手だけでなく、

自分の知らない人、

つまり自分の生まれる前に

この世でものすごい贈与をし続けてきた人

想像する力も必要と書かれています。

このような「想像力」が、教養にもつながると。

いま目の前に「あって当たり前」も、

想像力を働かせれば「あって当たり前じゃない」

ということがわかります。

 

世の中はギリギリのところで、

不等価交換で成り立っている。

そんな気づきを得て、

謙虚な気持ちになれる良い本でした。

 

まとめ

『世界は贈与でできている』

は、考えさせられる良い本でした。

ガチガチな資本主義の隙間にこういった考え方

は必要だと思います。

じっくり読むタイプの本です。

 

編集後記

土曜日は、RPAセミナーを行いました。

少人数のセミナーは

密度濃くできるので良いです。

 

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