少し前に、私が主催するコミュニティで読書会をしました。

https://freebiz-consulting.com/first-book-club-held-in-the-community

その課題本として取り上げたのが、

自分とか、ないから。』という東洋哲学の入門本です。

著者は元お笑い芸人の方で、とてもカジュアルで面白いけど、濃い内容です。

普段人と話すこともない

仏教をはじめとした哲学の話をして、

かなりの劇薬だけど救いにもなるんじゃないか、と思いました。

すべてはフィクション

一番衝撃を受けたのが、難しすぎた仏教を

誰でもわかるように大乗仏教としてまとめ上げた

「龍樹」という方のお話です。

この方の「空」(くう)のお話が、本当に面白くて。

空とは、簡単に言うと

この世界はすべてフィクションだ」ということです。

みんな、「ことばの魔法」にかかっていると。

例えば、

先日広い場所で講演をして

「税理士 戸村涼子先生」

と紹介いただいたけど、

「税理士」「先生」という言葉を取っ払うと

「戸村涼子、46歳、女」

です。

なんか普通っぽくなっちゃいましたよね。

これが(?)「空」の世界ということです。

ディズニーランドで可愛いミッキーをの姿をしているのは50代のおっさんかもしれません。(←夢壊すな)

この考えをつきつめると

会社も家族も、国も、モノも、街も、お金も、ミッキーマウスも、すべてみんなが「そういうもの」として認識しているからこそ成り立ってるのだから、フィクションになってしまいます。劇薬ですね。

「空」に敏感になった

実は、この読書会をしてから私は「空」に敏感になってしまったんですね。

この本の中で著者は

「卒業式の日の教室」

「恋人と別れた日の部屋」

「飲み会でどのグループにも入れない状態」

を「空」を感じるとき、と書いていました。

私も日常に「空」がないかなあとアンテナを張っていたら、

見つけました。

まずは、住宅が取り壊される工事現場を見かけたとき。

まだ家具などの残骸が残っていて、

照明とか、本棚とか、ぬいぐるみとか、確実に「誰かがいた」痕跡があるのに、取り壊されているのを見るとなぜか「ここにあった生活ってフィクションだったのでは?」と思ってしまったり。

もう一つは、廃墟となった洋館や店舗を見かけたとき。

ここに昔人が入って話したり、ご飯を食べていたのかなあとか信じられなくて。当然ながら、気配がまったくないんですよね。

(廃墟カメラマンって、もしかしてこういう「空」に憧憬を抱くのかも?)

なぜ、皆フィクションに振り回されるのだろう

そんな自分なりの「空」な瞬間を見つけるたびに、

しょせんフィクションなのに、それに人生を大きく振り回されるのもなんだかな

と吹っ切れる気持ちになりました。

どんなにお金を稼いで、立派な家を建てて、モノを集めたとしても、いつかあの工事現場のように取り壊される。税理士って資格もなくなるかもしれない。

…と考えているうちに「あ、なるほどだから東洋哲学って劇薬なんだ」と気付き、思考をやめました(^_^;)。

とはいえ、東洋哲学は

一種の救いにもなると思っています。

会社が辛い、などの状況にある人は、

部長も課長も部下も「しょせんフィクション」ということに気づければ

「結局、自分がしたいようにするのが一番じゃん」と、活力がわくかもしれません。

大事なのは、フィクションとどこかで理解したうえで、

世の中を冷めた目で見るのではなく、

一度きりの人生をどう生きるのかを真剣に考えることと考えています。

まとめ

読書会をきっかけに読んだ東洋哲学のお話にかなり影響を受けたので、書いてみました。

くれぐれも劇薬なのでお気をつけください…(つきつめすぎると無職になります)

編集後記

昨日は、夕方川の近くを歩いていたら二本足で立っているきれいな鳥を発見!

夕日に照らされていて、神々しかったです。こういう瞬間、もっと撮りたいな〜

最近のあたらしいこと

日本画を模写

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