良いこと・正しいことは自分起点で始めたい

良いこと・正しいことは自分起点で始めたい
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先日、コミュニティ内で以前から知っている方のインタビューをさせてもらったのですが、

その際に「良いこと・正しいことをしてる人(=私)を応援したい」と言ってもらえました。

あらためて「良いこと・正しい(と思う)ことは自分起点で始めたい」と

思ったことを書きます。

※自分が生まれ育った街。昔から頑固な子どもだった

「良いこと」「正しいこと」を強制される世界が苦手

なぜ今日このことを書こうと思ったかというと、

良いことや正しいことを外部から強制される世界にあらためて違和感を覚えたからです。


正直気持ち悪いな、と思います。


例えば、「社会貢献」というきれいな言葉がありますが、

これも周りの「空気」でなんとなくやっていては意味がなくて、

自分起点で始めるからこそ意味があると思うんですね。どんなに小さなことでも。


そもそも「社会貢献です」と組織でも個人でも自ら言っちゃうのも違う気がする。

被災地にボランティアに行く人達は、

「社会貢献のために」と言う人は少ないはず。それと同じだと思っています。

称賛されたいからやる?

「自分たちは社会貢献してます」のアピールは、

どこかで「称賛されたい」感情があるからだと思っています。


本当に自らが思い立って良いこと・正しいこと(と信じていること)を実践してる人は、称賛は求めないと思うんですよね。


私自身も、メンバーの方から「良いこと・正しいことをしている」と嬉しい言葉をもらえましたが、その言葉をもらいたいから始めたわけじゃありません。


「これは良いこと・正しいことなんじゃないか」と思ったから始めました。

あとは、自分が楽しめそうだから。ある意味エゴですね。それでいいと思っています。

「空気」に流されずに

最近、山本七平さんの「空気の研究」という本を読んであらためて日本独特の「空気」について考えました。

戦争だとか、重要な事項を、

どう考えても非合理的な判断なのに誰も止めず、

その場の「空気」で決定してしまう。


そして、いざ大惨事になったときに

「あのときはそうせざるを得なかった」と、

誰も責任を咎められないのが日本の世界観

ということが書かれています。

日常的なことも、この「空気」が大部分を占めている気がするんですよね。

不祥事が起こっても、その場の「空気」ですべてが決まっているので

なんでそうなったのかが誰も説明できない。考えてみれば怖いことです。

社会貢献の強制もその一部のような気がします。

本来自分起点で始めることが、なぜか「空気」となって圧力になる。

もちろん空気全部が悪いわけじゃなくて、

良い部分(感情移入しやすい国民性とか)もあります。

でも、ときには「水を差す」(この本に表現されていた言葉です)

人も必要なのでは。虻みたいな存在ですね。


良いこと・正しいと思っていることを

自分起点で始めるのは空気に流されない一歩です。

同時に、自分起点で良いこと・正しいことを実行している人を応援したいと思っています。

編集後記

月曜日から、講演(デジタル戦略・AI関連)のため名古屋へ。

鎌倉がそこまで寒くなかったので、油断してたらめちゃくちゃ寒くてもっと着込んでくればよかったと後悔しました…

無事4時間弱の講演は終わり、味噌カツも食べて、美術館にも行って、名古屋を楽しめました。

最近のあたらしいこと

イビススタイルズ名古屋

名北飯店

TKC中部会

惣菜コーナーの味噌カツ