「自分の本当のやりたいことが分からない」という悩みは若い人に多いと思います。

私自身も、高校時代に進路選択をすることになり「何がしたいの?」と聞かれても答えられませんでした。

結局、自分のやりたいことが分からないまま四年制大学の経済学部へ進みました。

そして、就職活動の時期へ。

この時期にきても自分のやりたいことがよく分からなかったので、たまたまアルバイトをしていた税理士事務所で「正社員にならないか?」と言われたこともありそのまま正社員へなることにしました。(親からは個人事業主の事務所に入るよりは、きちんとした(?)会社へ「就職」してほしかったようです)

そして、間もなく結婚・出産・仕事復帰を経験しました。

ここでも恥ずかしながら「自分で判断」したことは数えるくらいで、ほとんどが「なりゆき」でした。

税理士試験についても、たまたま職場の先輩が勉強していたのを見て、「自分も経済的に自立できるよう何か勉強をしなくては・・」と思い始めたのでした。

そして10数年たってようやく自分の意志で決定した(と思えること)、それが独立でした。

私のような例は極端かもしれませんが、皆さんも多かれ少なかれ経験されていることではないでしょうか。

アルバイト先で出会った外国人の方が明確な目的をもって日本でものすごい勉強をしているのを見てカルチャーショックを受けたこともあります。

「自分で判断すること」が極端に少なかったのは、個々の性格や環境も影響しているかと思いますが、日本の独特の教育・しきたりに関係しているのではないかと大人になってから思い始めました。

答えが決まっている学校教育

日本の教育は「決まった答え」を導き出す暗記型の勉強が基本です。(前よりは詰込み型ではなくなったとは言いますが、息子を見ていると基本的には変わっていないと思います)

例えば、「学級会」「学活」「ホームルーム」といった授業とは別の学校生活について様々なことを話す場が今でも設けられていると思いますが、中身は議論というよりは「決まった答え」を先生が話す場になっていました。

本来であれば、決まった答えなどない問題を様々な異なる意見を聞きながら落としどころを見つける(しかも基本は生徒だけで)のが子供たちに「考える能力」を養わさせるためにも必要だと思うのですが。

私が学生だった頃は「先生の言っていることが絶対」「ルールは必ず守らなければならない」という考えが今よりも強力だったと思います。(実際今よりもずっとずっと威張っている先生はたくさんいました)

しかし逆に考えると先生も、生徒も、親も「絶対的なルール」があったほうが楽だったのだろうな、と今は思います。

なぜなら自分で考える、判断を下す必要がないからです。

どうも腑に落ちないな・・と思っても「先生の言うことは聞きなさい」と言っていた方が親としては楽です。

先生としても、理路整然と対抗してくる生徒に理路整然と説明するのは大変ですね。

こうして「先生に従ってさえいればいい、ルールだけ守っていればいい」という考え方が徐々に蓄積され「自分で判断する能力」が乏しくなっていくのではないでしょうか。

道でたまたま見つけた注意書き

自分で判断しない文化はあらゆる方面で人々に刷り込まれているような気がします。

先日近所を歩いていたらたまたま次のような注意書きを見つけました。

「歩道に煙草をポイ捨てしないでください。誰かが見てますよ!」

前半はいいにしても、後半が気になりました。「誰かが見てますよ?」

天邪鬼な私はつい「じゃあ誰も見てなければいいってこと?」と思ってしまったのでした^^;;

そういえば、子供を叱る親が「他の人に迷惑になるからやめなさい!」「〇〇さんに怒られるからやめなさい!」

と言っているのと少し似ているのかな、と思いました。

あくまで大切なのは「人の目」であって、自分の判断基準ではない。

日本ではよく「世間体が悪い」「世間体に響く」という言葉をよく聞きますがよくこの注意書きに現れていると思います。

学校教育は会社に似ている

知り合いで、「今度、幹部だけで合宿があるんだよ。大変だ~」と言っている人がいました。

会社なのに合宿??と思い聞いてみるとわざわざ経営方針などを話し合うために山奥まで行って「合宿」をするのだそうです。

恐らくですが、士気を高めるためにそういった場を設けるのでしょう。

学校の修学旅行と少し似ていますね。

私自身の経験で言うと、ずっと外資系企業に勤めていて初めて日系企業に勤めた時のこと。

まず大机形式なのに驚きました。隣の人の電話の話す内容など丸聞こえです。

業務の進め方は、上司に逐一承認を得てから。

そして毎朝、お昼時間、定時に鳴るチャイム。朝礼。社内行事。社内旅行。

一瞬ここは学校??と思ったくらいでした。

そういえば会社は学校に似ているなとそのころ思い始めました。

学生時代にほとんど問題なく過ごせた人は会社でも上手くやっていけるのではないでしょうか。

会社は一人ではなしえないことを大勢で成し遂げるために存在するため「団結力」「協調性」が重視されるのでしょう。

また、価値観の違う大勢の人をまとめあげるためにも「一定のルール」が必要です。

会社ではある程度の役職まで上がらない限り「個々の判断能力」はあまり重視されないのかもしれません。

だからこそ、組織に属している人こそ意識して「自分で判断する」場を作ることが必要なのだと思います。

独立して「自分で判断する」ことが当たり前となった

環境のせいにする気はありませんが、日本の独特な教育や会社のしきたりが自己判断能力に大きな影響を与えていることは間違いないと思います。

独立した今は、自分で判断することが当たり前になったため、非常に神経を使いますし体力も消耗します。

今まで自分で判断したことが少なかったため当然です。

しか、しやはり楽しいと感じます。

誰かの指示によって与えられたものをこなすのではなく、自分の責任で判断したことを、自分の責任でこなしていく。

会社などの組織にいてもこれはある程度可能かもしれませんが、私には独立という道の方が合っていたのだと思います。

(思い返してみれば、学校生活においても私は不適応者でした・・「体育は休む(運動音痴のため)」「部活に入らない」「友達をいっぱい作らない」「先生が嫌い」・・などなど。)

組織の中にしろ、独立するにしろ、「自分で判断する」機会が少ない日本社会で意識的に自分で判断する場を作っていくことはこれから生き抜いていくためには非常に重要なことだと思います。(私のように大人になってからではなくできれば学生時代の内に!)

まとめ

日本の独特な教育、社会のしきたりが自己判断能力に影響を与えているのではないか。

自分のこれまでの判断能力の低さを考えていた時に思いついたことを書いてみました。

人から言われてこなしてきたことは基本的に大きな成功もなければ、失敗もありません。

一方、自分で判断し、そこで失敗・成功したことは大きな糧となります。

私は幸運なことに独立をしてそのような機会を多く得ることができました。

できれば学生時代や若いうちにこそ多くの判断を自分で行い、成功・失敗を含めて多くの経験した方が良いと思います。

編集後記

息子の中学校がプール開きをしたようで「いいな~」と思いましたが考えてみたら私は泳げないのでした。

ジムに通う前はプール通いも検討していたのですが泳げない人が通うのにはとてもハードルが高く・・。

(すいすい泳いでいる人の邪魔をしてしまったらどうしよう、とか)

小心者なので一度早朝の市民プールに行ってみた(人がいないかと思って)のですが、高齢者がいっせいに水中ウォーキングをしていて、私も一緒に水中ウォーキングして帰ってきました^^;;

初心者が気軽に通えるプールはないのでしょうか・・(まあ、あまり気にしなければいいのですね、きっと。)

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