目的のない読書と自由について。
10/32023
カテゴリー:本
目的のない読書をしています
昔から読書は好きで、
「本を読まなきゃ」
と思ったことは一度もありません。
気づくと
電車の中で、
眠る前に、
さっとKindleや本を手に取って
読んでいます。
※ジャンルもバラバラ
ただ、実を言うと
「目的のない読書」
をすることが多くて、、、
実務本は必要な時にしか読まなくて、
自分の興味があって仕事と全然関係ない分野(最近だとAI、哲学や文化人類学など)
を読むことが多く、ちょっと罪悪感を持っていました。
なぜなら、読書は行動につなげてこそ意味が
あるから、と思っていたので。
それでも、目的のない読書も
まあいいかなと思ったきっかけを書きます。
國分功一郎先生の「目的への抵抗」がすごかった
私は1年に1冊くらい
「これは人生変わる」
という本に出会うのですが、
そのひとつが最近読んだ國分功一郎先生の「目的への抵抗」でした。
まず、コロナ禍における「移動の制限」に対して
意義を唱えた哲学者・ジョルジュアガンベンの話が強烈でした。
移動の制限という「監獄の誕生」を想起させる
重い刑を、我々はいとも簡単に受け入れて良いのか。
あのコロナの渦中で、身の危険を感じながら
こんなことを主張できるのは哲学者だけですよね。
でもこういう世界全体の「空気」に流されないで
ちくっと人々を刺すような「社会の虻」としての
存在は、必要と書かれています。本当に、そうだなと。私も空気に流されていなかったかと。
そこから通じる、
「本当の自由とは?」
に通じる話が印象的でした。
「不要不急」があの頃何度も言われていましたが、
ただ生存している(本では「剥き出しの生」と書かれています)
だけで本当に「生きている」と言えるのか?
と言う疑問は確かにあります。
「不要不急」と言われればほとんどのものが
そうなっちゃいます。
反対の言葉は「必要」ですから、おのずと「目的」
があることしかできなくなってしまう。
それって不自由じゃない?生きてるって言えるの?と。
目的があること=消費、目的がないこと=浪費(贅沢)
國分先生が目的と消費を結びつけているのも
納得です。
消費には、目的が必ずあるんですよね。
例えば、観光地を回ってこのレストランへ行って、インスタにアップして、、
という消費活動は、目的があるからこそ縛られる。時間に追われる。自由じゃない。
でも、目的のない行動(國分先生はこれを浪費、贅沢と書いています)
は目的に縛られないがゆえに自由であると。
浪費や贅沢を享受するのは目的からはみ出る経験であり、
それこそが人間らしい生の核心であるとおっしゃられています。
で、ここで
「そっか私がしている目的のない読書や旅は贅沢なんだ!自由なんだ!」
と単純に思えればいいのですが・・
とはいえ目的も必要だよね、とぐるぐるしちゃうんですよね。
目的がなければ、日々の行動もとりづらい。
でもこういう「モヤモヤ」を頭に抱えることも
なんだか贅沢だなあと思ったり。
きっとこういうことを考え続けながら生を終えるんでしょうね。それもありだな。
まとめ
今日はとりとめもないですが、
目的のない読書と自由について書いてみました。
私は「良書」というのは、
こうやってモヤモヤを頭の中に持たせてくれる
本だと思っています。
「あーわかりやすかった!終わり!」ではなく。
そんな、いくらでも頭の中で反芻できる本に数年に1度出会えれば、満足です。
編集後記
昨日は、フランスの風景を描き続けた
モーリス・ユトリロ展示会が横浜でやっていたので
見に行きました。
モネほど有名じゃないけど、
ちょっと憂のある白、
そして淡いピンク・緑が混じった
メルヘンなタッチが大好きです。
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