先日、とある本(哲学系)を読んでいたら

人と人がコミュニケーションをするときは、

  • 西洋の国では一人称の自分が、三人称の人に話をしている状態
  • 日本では0人称の人が、二人称の人に話している状態

であることが書かれていました。

西洋の国ではなんで相手が二人称じゃないの?と思ったのですが

それは「相手がこちらとの関係によって変化しない」という意味合いを込めているためとのことです。

対して日本では相手との関係性によって相手の呼び方や、話す内容まで変わってしまうと。

上司の前では「はいそうですね」と言っていても、飲み屋では同僚に愚痴をこぼす状態でしょうか。

この「0人称」という言葉がすごく面白くて、

なおかつ腹落ちしたので深堀りしてみたいと思います。

※お花は全部形も、主張も違う※

「0人称」の意味

先日、久しぶりに英文メールを書いたのですが

すべての文章において「I」とか「We」とか主語を入れるので

「なんかくどいなあ」という気持ちになりました。

でも西洋ではそれが当たり前なんですよね。

「みんな違って当たり前」の世界では、

「誰の」意見なのかがはっきりしていないと、

コミュニケーションが成り立ちません。

一方で日本語は主語がないことが当たり前ですね。

政治家など、国のリーダーですら「〜と言われてます」などと主語がありません。

島国であったがゆえの文化である面も多いと思いますが、

悪く言うと「自分がない」ということになるかと。

「0人称」の弊害

0人称の特徴は、「自分がない」に加えて、「みんな同じ」という考え方です。

「みんな同じ」で良かった時代であれば大きな問題にはならなかったでしょう。

しかし、今の時代はどうでしょうか。

「みんな同じ」で良い時代はとっくに過ぎ去っています。

みんなが良い学校に行き、良い会社に入り、良い家庭を作って、自由快適な老後を迎える・・

という「良き人生」は誰か(政府など)から与えられるものではなくなりました。

もちろん、万人に通用する「良き考え方」なんてものもありません。

すべての人が「自分」という1人称を持って、

「他人=彼、彼女」(3人称)と自分は何もかも違うという意識を持ち、

自分で人生を選択しなくてはならない時代なのだと考えています。

「0人称」で生きていくのは辛い

言葉というのはなかなか厄介で、意外と心にまで影響を及ぼしているものです。

先日、知人がとある団体の委員をやっていることに対して

色々と不満や愚痴をこぼされていました。

「やめてしまえばよいのでは?」

と伝えたところ

「○○さんにお世話になったから、あと数年は頑張ります」

という言葉が返ってきました。

これも0人称なのかな〜と思いました。

「私(一人称)は○○さんの役に立ちたい」

ではなくて、

「○○さんにお世話になったから恩返しをするのが普通(世間はそう考えるし、みんなもそうするはずだから)

ということで「私」がありません。

正直、逆効果かと思いました。

もし私が誰かをお世話したとしても、

それに対して「恩返し」をしてもらいたい、とは全く思わないですし、

「お世話になったから」と口先だけ言って相手が不満や愚痴を抱えながらいやいややっているのだとしたら

「なんで本当のこと(「自分」という1人称の意思)を伝えてくれなかったのか」

と不信感すら持つかもしれません。

自分という一人称を持たないと、こういった

  • 嫌われたくないので、自分の意思にそぐわないことをいやいやして貴重な時間を失う
  • 「相手も自分と同じ考えだ」と思い込む
  • 頑張ったのに、報われない(自責ではなく他責のため)⇒心が荒む
  • 周りの人にも信頼されない

と辛くなるばかりです。

なにか行動に迷ったときこそ、

一人称(自分はどうしたいのか)で考えることが

結果として他人の信頼を得るし、自分の人生を生きるために必要と思っています。

 

編集後記

昨日は、韓国在住の方から税務相談。

途中から韓国映画の話になって、思わず身を乗り出して

聞いてしまいました(最近はまり中)

 

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