ChatGPTをはじめ、AIが流行しています。

私自身ももちろん色々試していますが、

ふと立ち止まって考えたいのが、

「人間にできてAIにできないことってなんだろう?」

「AIの活用がもっと進む時代に考えなければならないことはなんだろう?」

ということです。

 

このヒントが、「哲学」にあると思い、

最近オランダの哲学者のスピノザの「エチカ」という本を読み解いています。

(普通に読むと数ページで挫折するので、NHKの「100分de名著」と、國分功一郎さんの「初めてのスピノザ」を

テキストとして使っています)


エチカを通じて、私が大事と考える

考え方を今日は書きます。

 

※普通に暮らしている人の生きる知恵を与えてくれるスピノザ

 

 

スピノザがいう「自由」

まず面白いな〜と思ったのがスピノザがいう「自由」の概念です。

 

私たちが普通「自由」という言葉を思い浮かべる時、

「外部からの制約がない状態で伸び伸びする!」

のイメージがありますが、それは本当の自由ではないとしています。

 

スピノザがいう自由は、

ある条件(必然性)のもとで、その条件に従った上で自分の力をうまく発揮できること

なんですね。なるほど〜

 

「力」のことは本では「コナトゥス」と呼ばれていますが、

それは自分の存在を維持しようとする力のことを指します。

具体的な一例でいうと「欲望」ですね。

 

自由は「力」を発揮できるかどうかにかかっている。

だから、単純に「属性」「立場」だけでは自由かどうかなんて判断できないんですよね。

例えば、

「独立した人は会社員より自由」

とも言えないことがこれでわかります。

確かに会社員は勤務時間という決められた時間があるけど、

その中で自分の「力」を大いに発揮できるのであれば、

それは自由であるとも言えます。逆に、独立していても身動きが取れず不自由な人もいるでしょう。

 

その行為は本当に自由?能動と受動

スピノザの言う「能動と受動」の考えも面白いです。

 

普通能動というと行為の方向性(自分から相手なのか、相手から自分なのか)

が考えらえがちですが、

スピノザは

その行為が誰のどのような「力」を表現しているのか

によって能動・受動を判断します。ここでも「力」が重視されているんですね。

 

例えば、お金を稼ぐことの原動力として

「幼い時に貧しくて、周りから馬鹿にされた」

ということで「そいつらを見返してやる」という気持ちが

原動力になっているのだとしたら、

それは見かけ的には「頑張ってる」ということで

周りからは「能動的」に見られるかもしれませんが、

他人が力の原因となっている以上「受動的」と見るんですね。

 

これとは違って、

例えば道端で困っている人を助けるなど、

周りの目を気にせず勝手に自分で動いてしまう、

自分が人の役に立つと自分が嬉しいからしてしまう、

といった「自分が原因」の行為を「能動的」とスピノザは言っています。

 

自由になりたいなら、なるべく「能動的」な行為を

増やそう、ということです。

 

これも、承認欲求が溢れかえってる世の中で教訓になりそうですね。

「その発信や行為、本当に自分が原因?」と立ち止まって

考えることが重要です。

 

「意志」の否定

スピノザは意志の力を否定しています。これにも本当に共感します。

 

何かの目的を達成したとき、

人はその「結果」にしか注目できないため、

その原因を「意志の力があった・なかった」

に求めがちです。

 

でもその意志も自分だけで作り上げたものじゃなうて、

何らかの多元的な原因によって決定されている、というのが

スピノザの考えです。

 

これは何も精神論だけじゃなく、

脳神経科学的にも

「笑うと楽しくなる」

「走ると気持ちよくなる」

といった感じで、

自分の意志とは関係なく

動くことによって心に働きかけることだってあるんですよね。

 

スピノザの解説書を書いている國分功一郎先生は

「現代は意志教の時代」

と言っています。

「いくつかの選択肢を自分の「意志」によって選ぶ→それは「自分の」意志なんだから、何かあったら自己責任」

が当たり前とされていることに警鐘を鳴らしています。

 

確かに、意志は外部からの働きかけ含め(巧妙な詐欺とか)

一元的には決まらないので自己責任とするのはあまりにも厳しいんじゃないかと。

「そこに意志はあったか」

を突き詰めるのは原理的に不可能だと思います(そうすると裁判とか難しそうだけど)。

 

哲学は〇〇のためのもの、机の上で学ぶことじゃない

すごく勇気づけられたのが、

國分先生はドゥルーズの言葉を借りて、

「哲学は万人のためのもの」

とおっしゃられていたことなんですよね。

 

哲学は

哲学者が研究室の中だけで

小難しく話すことじゃなくて、

「普通の人が幸せに生きるための道具」

なんだと。

 

だからこそ、机に向かって

小難しい本を読むんじゃなくて

家で家事する、仕事する、外に行って人と話す、運動する

といった普通のことを通じて哲学を身につけることが

「哲学を学ぶこと」。

いま自由じゃなくても、「自由に少しでも向かっている」

ことを大切にしています。

 

スピノザは結果じゃなくてプロセス重視なんですね。

とっても身近に感じられます。

 

AIにできないこと

最後に、國分先生がスピノザを通じて

AIにできないことをおっしゃっていて、共感したので

書きます。

 

まずは、他者感覚(想像すること)ですね。

 

ご存知のとおり、「創造」のほうはAIは得意です。

画像も文章も組み合わせ次第ですごいものを作ってくれます。

 

でもどうやっても「自分と他者は同じ感覚」といった「想像」はできません。

(だから平気で嘘をつくんだろうなと汗)

 

あとは、スピノザ哲学で大事な「力」(欲望)を持てないというのがAIの大きな弱点だと。

これもわかります。

AIがいくら創造的といってもモチベーション(力)がないんじゃ何も世の中変わりませんよね。

 

というわけでここで見えてくる人間がしていくことは

本当に当たり前の帰結で、AIをほどほどに活用した上で

  • 他者を理解しようと努力する
  • 自分の力(欲望)を大事にする

ということだと思います。

 

でもこれ、ふと怖くなったんですけど

世の中って逆に動いてませんか。

國分先生もおっしゃっていましたが、

「AIが人間を超える」ことより、

「人間がAIに近づく」

ことの方を恐れた方が良いと。

 

確かに、AIっぽい人が増えている気がします。

ちょっとした言動を切り取ってレッテル貼りをし、

他人を理解しようと全然しない人たちや、

影響力のある人たちの言動ばかり追い求めて

自分の欲望を見失っている人たち。

 

白黒つけて「正しい」を追い求めることは

AIに大得意とするところ。そこを磨いても

仕方ないと思います。

時間と手間がかかっても、人間は曖昧な他者を理解し、

自分がどういう場所でどういうふうに動けば力を最大限発揮できるか、

日々の暮らしで身につけていくことが大事と

気付きになりました。

 

まとめ

最近、AIの本を読んだり、実際にAIを使ってみて

「哲学って今の時代にこそ大事だよね」

と思ったのでスピノザのエチカを通じて

大事と思った部分を紹介しました。

AIが広く普及する前に、

こういった哲学も学ぶ

ことが大切と考えています。

自己啓発本を何冊も読むの良いけど、

こういった古典を1冊読んだほうが

得られるものが多い気がします。

 

 

編集後記

先週後半から三重へプチ旅行。

台風直撃、

帰る日は新幹線運休、

翌日も改札にすら入れず

結局2日遅れで帰宅しました。

まあ、大変だったのですが

予定不調和って逆に楽しいですね。

大雨の中色々見て回ったり、

予定してなかったホテルに泊まれたりと

楽しめました。

 

最近のあたらしいこと

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猿田彦コーヒー

トラベロッジ名古屋栄

久屋大通庭園フラリエ

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