「アウトプットありきのインプット」について思うこと
11/72023
アウトプットがないインプットは意味がない?
よく、
「インプット(勉強)はアウトプット(行動)がなければ意味がない」
「行動してこそインプットの意味がある」
ということを聞きます。
これは、一部正しいですがすべてがすべてそうとも言えないな、
と考えています。その理由を書いてみます。
※歴史はすぐには役立たないけど
本当に価値のあるインプットは時間差があるから
すべてのインプットが、「すぐにアウトプットできるものじゃないもの」
と考えています。
時間がたってから「あ、あれはこういうことだったのか」
と点と点がつながって自分の血肉になる瞬間って
誰でも経験していると思うんですよね。
例えば、ビジネス書やハウツー本などは
すぐに実生活に役立てることが可能ですが
歴史や哲学に関する本はすぐには役立ちません。
でも、
自分の頭の引き出しの中に一旦しまわれて
熟成されていく感覚があります。
ときに、他の引き出しにしまわれていたインプット
と紐づいて発想が起きることも。
やっぱり良いインプットって、時間がかかると思うんです。
「即効性」をインプットに求めると、
こういう「時間差」には耐えられず、
「小説や歴史、哲学書なんて読んでも意味ない」
という発想になります。
※歴史と会計を同時に学べた本
でもこれまで、私が人にはない、
オリジナルを持った発信ができたと感じる時はいつも
過去の「すぐに役立たない」知識、モヤモヤを
引き出しから探し出した瞬間でした。
「なんか解決できないモヤモヤ」を
頭にかかえることができる能力(「ネガティブ・ケイパビリティ」
と言われます)
が価値ある学び、アウトプットに必要と感じています。
目的思考からの離脱で自由になれるから
アウトプットありきのインプットに疑問を持ったのは、
「○○のために」という目的思考に縛られる点です。
確かに生きていく上である程度の目標や目的がなければ
やっていけませんが、過度になると
そこからの逸脱ができずかえって不自由になるんじゃないかと思っています。
特に、私のように40代を過ぎて
「自己投資」とはまた違った「自分が純粋に楽しむための」学びを考えている方は。
学びたいから学ぶみたいな感覚です。
そこで、私が目的よりも大事にしているのは
「アンテナ」
です。
頭の中で「役立つ」という考えるというよりは
感覚的なものです。
「あ、これよさそう」
「あ、これ面白そう」
と思った瞬間を逃さない。
これをインプットの基準にすると
ぐっと日々が楽しくなります。
ですので、私は純粋な目的思考型のインプット(仕事に必要など)
と、長い目で見た今回のようなインプットは
ある程度分けています。
前者は「アウトプットありきのインプット」で全然構わないんですよね。
後者は、いわば「日々の学び」のためのインプットです。人生後半はこっちをメインに楽しみたい。
両者を、バランスよく使い分けて
インプットを楽しんでいきたいと考えています。
まとめ
「アウトプットありきのインプット」は本当に良いんだっけ?
という問いから達した結論を書いてみました。
本当の学びは、日々の生活、そして即効性がなく、自分の純粋な
アンテナに引っかかるものに潜んでいると確信しています。
編集後記
昨日から友人が鎌倉へ遊びにきてくれたので
近場をご案内。
お寺や古民家イタリアンを楽しみました。
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