仏教の凛とした、合理的な考え方が好きで

よく本を読んでいます。

その中でも同年代の僧侶・小池龍之介さんの本が読みやすくて好きです。

(人間っぽさがあって)

こちらの本は特に一つの教訓を2ページにまとめていて

とても読みやすくてお勧めです。

その中でも

「どんな犯罪も災害も裏切りも『ありえる』もの」

という教訓があって、

「ありえない〜」

と幼稚な言葉を連発していていた自分への戒めとなったため

その思うところを書いてみます。

「ありえない」という言葉は傲慢

誰かが失敗したり、予期せぬことが起こると

「こんなの、ありえない!」

とつい言ってしまうことも多いものです。

ただ、この「ありえない」「ありえる」の基準は、

当然のことながら「自分の常識」なんですよね。

自分の常識がすべてに通用するという傲慢さで

こういった発言になるのです。

この本の中に『歎異抄』という仏教書で親鸞がつぶやいた言葉が記されています。

彼は大まかにこんなことを言います。

「自分が殺しをしないのは、この心が善だからではない。たまたま恵まれた状況を与えられているから盗みや殺しをせずに生きていられるけど、しかるべき環境と精神状態に置かれたら、盗みも殺しもするだろう。」

つまり、今私達が「常識」だと思っている

「盗みや殺しをしない」

ということすら、環境と精神状態によっては

「ありえる」

と親鸞は言っていることになります。

たまたまそういうこと(盗みや殺し)をしなくても良い環境にいるだけだと。

どんな人もありえる

先程の例は少し極端ですが、

どんな人も自分とは違う常識を持った人間であり、「ありえる」

と考えられれば、「大切に扱ってくれなかった」「裏切られた」

などといって人に過剰に期待することは避けられるのではないでしょうか。

自分の価値観と真逆の人がいるからといって、

その人が「存在しちゃいけないわけではない」ということは、認識したほうが良いでしょう。

メディアやSNSなどで誰かが失言して

「ありえない」などと否定の言葉ばかりかけているのは、

自分の優越感が満たされるだけであって、あとに残されるのは空虚な気持ちだけです。

どんな人でも「ありえる」という寛容さを持った上で、

建設的な議論をしたいですね。

どんな事態もありえる

周りにいる人だけでなく、周りで起こる事態も、基本「ありえる」と思っていたほうが

良いと考えています。

想定していなかった事態が起こるとどうしても

私たちは「ありえない」と思考停止状態に陥ってしまいます。

そうならないように普段から

「どんな事態もありえる」

と行動していたほうがいざというときに冷静でいられるはずです。

人が一番想定していない事態。それは自分の死ではないでしょうか。

しかし、自分の死は本当にありえることだと思います。

明日、本当に自分が生きているのか私は確信が持てません。

そこで私がしている対策はエンディングノートを書いていくことです。

エンディングノートを書いてみた。「どう生きるか」を考えられるのでお勧め

「一番最悪な事態」を想定していると、気持ちが落ち着いてきます。

小さな悩みもどうでもよくなるし、

日々周りの人との時間を大切にしようと思えるようになるので

お勧めです。

 

どんな人も、事態も、「ありえる」と思えれば人に優しくなれますし、強く

生きていけます。

まとめ

どんな人も、どんな事態も「ありえる」と思っていれば、

人に優しくなれるし強くもなれるということを書きました。

日々の「やるべきこと」に流されているとこういったことを考える

余裕がなくなるので、少し時間をとって「ありえる」ことを考えて

みるのがお勧めです。

 

編集後記

昨日は、事務所兼貸スペースでお客様との打ち合わせ&セミナー練習。

順調に貸スペースは予約がはいってくれるようになりました。

 

最近のあたらしいこと

早朝Webセミナーを受ける

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